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6世紀後半の規模の大きい古墳「加牟那塚」

水道みちを北西に向かっていくと、道沿いに家が建ち並ぶなか、こんもりとした加牟那塚古墳があります。金塚、あるいは釜塚ともいわれ、高さ7mあまり、直径40mの大きさは、6世紀後半の東日本で規模の大きなものであり、県文化財に指定されています。
塩沢寺の地蔵堂の前から、南アルプスを望むとこの加牟那塚古墳が住宅地のなかから、頭を出している姿が見えます。
石室は、横穴式石室で人間が歩ける大きさがあり、入口から中を見る事ができます。天井となっている数個の大きさの石には驚かされます。
加牟那はカムナと読みます。元々は高句麗(現在の朝鮮)の渡来人の書くカタカムナ(現在のカタカナ)が語源とか、また、カムナとはやはり高句麗の神の名であると聞いています。
何れにしても甲府の北部山岳地帯には、加牟名塚や万寿森古墳を代表とする積み石の古墳が多数存在し、石和の手前の横根町迄続いています。富山辺りから上陸した渡来人が山梨に来て、この辺りに多く住んでいたと言われています。
当時は現在の朝鮮半島が、大国高句麗と百済、新羅と別れる戦国時代で、挙って日本に渡来し、山梨県内でもこれらの勢力が入り争っていたそうです。そして甲斐の名称武田信玄を生んだ甲斐源氏の初代が源義光別名「新羅三郎」(しんらさぶろう)というそうです。一説には近江の国の新羅明神で元服したのが名の由来とされていますが、ひょっとすると武田信玄の祖先は新羅(しらぎ)出身の武将だったという事もあるかもしれません。

県令と三角畑
明治時代のことです。湯村温泉にはまだ大きな宿屋はありませんでした。そのころ洋風の建物をこしらえてたいそう賑わったのが「せいせいかん」でした。今の湯村温泉の鷲の湯の隣だったそうです。
佐久往還(山の手通り)を甲府から昇仙峡の方へ向かって走り、湯川橋のところから川の岸を右にくねくねとした道を入っていくと湯の村で、そこに「せいせんかん」がありました。
ここを当時の県令(知事)が気に入られてよくご遊興にお使いになったそうです。
役所から人力車に乗ってお供を連れて、しばしばお出かけになったとか・・・。
ある雨上がりの朝、お帰りの県令様の人力車がぬかるみにはまって転げたので、県令様は川に落ちてずぶ濡れになったそうです。
役所に戻った県令様はたいそう怒っていて湯村の地図を持ち出すと、太い筆で「せいせんかん」からまっすぐに佐久往還まで、ぐいと一本線を書くと、「ここに道を造れ」と申しました。
県令様といえば今の県知事で、勿論山梨県で一番偉い人です。
忽ちくねくねした道は、今の湯村のようなまっすぐした道になりました。
当時湯村の入り口は、明治旅館の畑がありましたが、畑をまっぷたつに切り離すように道が出来てしまいましたので、湯村の人たちは「道ばたの畑が三角になった」と話したそうです。今でも「亀屋物産店」は三角形の土地にお店を出しています。

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