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興味深い研究資料をいただきました。それは平成10年発行の「わだち」という湯村の隣にある羽黒地区文化協会の記念誌です。以下ところどころ抜粋します。
以前に本紙でちょっと紹介した「北山三十三番札所」について、その後判ったことを書こう。
「北山三十三番」は少なくとも明治維新の百年位前には盛んだったと思われる、四国の八十八ヶ所などと同じような霊場巡り。それも一日か二日がかりで巡って歩くことの出来るミニチュア版ともいえるものだったらしい。
湯村の松元寺が一番で、五番が山宮の明王院、八番が同寺中の神宮寺、三十番が千塚の大慈院(庵)で三十一番が同寺の西にあり三十三番の打ち止めがこの東の称念寺だということが判っているだけだった。
ところがその後の調査で一番の松元寺の観音像わきに「北山筋三番」と刻まれた半分の像があり、これはかつてすり鉢山あったものだと判った。そうすると松元寺が一番で、すりばち山にあった名前の判らない寺が三番なら、その間の塩澤寺が二番だと思いたいところだけれど証拠づけるものがあるわけではない。
文献では羽黒の龍源寺が四番目だとあり、青松院の西に五番と八番があるのは青松院とどこかが六、七番ということになると思えるがこれも推測。
もう一つ、ここから西へ行き、南へ下って大慈院―称念寺と巡るまでの間に三十三ものお寺があったとは思えないことをどう説明するかという問題。
そこで、三十三番は山宮から荒川を越えて松島(現敷島)へ行ったと考えたらどうだろう?そう思って文献を見ると「甲斐国社記寺記」に、ちゃんとあったのでうれしくなってしまう。境村の随岸寺が「北山筋札所」と記されている。そうすると、ここから島上条、中下條、長塚、金竹、長松寺、飯田というコースを通って千塚に戻ってきたとは十分に考えられることじゃないだろうか。そう思って「社記寺記」から拾うと、なんとも都合よくも三十三ヶ所が揃ったのだ。(詳細は月刊「新山梨」十二号にある)
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と言う訳で、確かめにいったところ確かに出神様・石碑・石観音に並んでおかれた、お腹から真っ二つに割れた石観音に「北山第三番」と確かに彫られていました。
 
塩澤寺には墓地の方まで歩いてもそれらしいものはなかったのですが、写真を比べても判るように昔は無かった山門が現在はあるので、こういった造作の際に入口近くにあった石碑等はかなり移設されたり処分されたのではないかと思います。これはきっと他の寺院でも同じでしょう。
 
すり鉢山というのは塩澤寺より先で、現在の湯村団地に左折する三枝酒店の先に羽黒大宮神社、龍源寺と続きます。この羽黒大宮神社が背にしているのが、「天狗山」と呼ばれています。信仰があった山と聞いています。
青松院の十一面観音像は元々青松院のある片山という山の頂上にあった観音堂から移したと聞いていますので、六、七番は山頂の観音堂にあったのかもしれません。
また、「北山筋」が敷島方面を「巨摩郡北山筋」と呼んでいたことも聞いていたので、「北山筋観音霊場巡り」はとりあえず、三十三箇所巡りで、松元寺より西へ行ったものであることは判ってきました。
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