飯田河原の合戦の時に積翠寺に避難していた信玄の母(大井夫人)は、同年10月10日に武田方の大勝の報告を聞き、安堵して男児を出産しました。これが言わずと知れた戦国の名将武田信玄の誕生です。
信玄は戦が得意でありましたが、一生のうち負け戦に近い苦い勝利というものを二回経験しています。実は二回とも相手は村上義清で、その一回目の大敗である上田原の合戦の後その傷を癒すために湯村温泉(当時は島の湯と呼ばれていました)で30日間の湯治をしたと伝えられています。もっとも当時は躑躅ヶ崎の館から湯村温泉が肉眼で見えたと思いますので、隠し湯というより表湯という感じだったでしょう。甲陽軍鑑によれば塩尻峠の戦い後にも信玄自らが湯治をしたと記されています。
新田次郎の小説には第2回川中島の合戦の後、湖衣姫を労咳(結核)で失い、信玄自らも長い陣中生活で弱った身体を志磨の湯(湯村温泉)で癒すシーンが登場し、以降戦のあるなしに関わらず志磨の湯から躑躅ヶ崎の館の軍議に出席するようになり事実上の住まいのように描かれています。湖衣姫という名は新田次郎の「武田信玄」の中に登場する諏訪のお姫様(諏訪御料人。御寮人とも)の名で、作者が諏訪の出身であることなどから、諏訪湖のイメージで名づけられたと言われております。また、井上靖の「風林火山」の中に登場する諏訪御料人の名は由布姫といい、作者が大分県の由布院(現在は湯布院)で由布岳を見ながら執筆したためと言われています。